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『ミス・サイゴン2020』を観る前に、知っておきたいベトナム①
~ベトナム基礎情報・地理編~
こんにちは。
突然ですが、皆さんは『ミス・サイゴン』というミュージカルをご存じですか?
1989年にロンドンで初演された、ベトナム戦争を題材にした悲劇系ミュージカルです。
初めて『ミス・サイゴン』を見た時、凄く感動したのですが、ベトナム戦争やベトナムの歴史を知らなかったため、ストーリーについていけなかった部分がたくさんありました。
そこで、今年の5月に上演される『ミス・サイゴン 2020』を観る前に、
『知っておくと観劇がより楽しめるベトナムの歴史』
について勝手に勉強し、数回にわたって勝手にシェアしていきたいと思います。
(今回は心理学とは全く関係ありません)
『ミス・サイゴン』を深く楽しみたいと思っている方、一緒に学びを楽しみましょう。
※ほぼネタバレなし(あらすじ程度の内容)ですが、ネタバレに敏感な方はお控え下さい。
『ミス・サイゴン』ストーリー(公式HPより)
1970年代のベトナム戦争末期、戦災孤児だが清らかな心を持つ少女キムは陥落直前のサイゴン(現在のホー・チ・ミン市)でフランス系ベトナム人のエンジニアが経営するキャバレーで、アメリカ兵クリスと出会い、恋に落ちる。 お互いに永遠の愛を誓いながらも、サイゴン陥落の混乱の中、アメリカ兵救出のヘリコプターの轟音は無情にも二人を引き裂いていく。
クリスはアメリカに帰国した後、エレンと結婚するが、キムを想い悪夢にうなされる日々が続いていた。一方、エンジニアと共に国境を越えてバンコクに逃れたキムはクリスとの間に生まれた息子タムを育てながら、いつの日かクリスが迎えに来てくれることを信じ、懸命に生きていた。 そんな中、戦友ジョンからタムの存在を知らされたクリスは、エレンと共にバンコクに向かう。
クリスが迎えに来てくれた−−−心弾ませホテルに向かったキムだったが、そこでエレンと出会ってしまう。クリスに妻が存在することを知ったキムと、キムの突然の来訪に困惑するエレン、二人の心は千々に乱れる。したたかに“アメリカン・ドリーム”を追い求めるエンジニアに運命の糸を操られ、彼らの想いは複雑に交錯する。そしてキムは、愛するタムのために、ある決意を固めるのだった−−−。
ベトナムはどこにある?
ベトナムは、日本から飛行機で約6時間。
タイやカンボジアと隣接する東南アジアの海沿いの国です。
地図で見ると、縦に非常~に細長い形をしています。
赤道に近く、一年を通した平均気温は、28度程度。
雨季と乾季がある熱帯気候。
以前雨季に旅行に行ったとき、バケツをひっくり返したような雨がたびたび降り、ずぶ濡れになりました。
日差しも強いし、とにかく暑かった!
『ミス・サイゴン』は1975年4月29日~30日におきた出来事を軸にストーリーが展開しますが、
ベトナムの4月の最高気温は、35度!!
あつぅ~( ゚Д゚)
雨季前の一番暑い時期で、湿度も高くじとじとしているようです。
イライラしてしまいそうな蒸し暑さの中、あの物語がスタートしていると考えると、生々しさが増しますね…。
サイゴンはどこにある?
『サイゴン』とはベトナム南部の都市の名前です。
ベトナム戦争時代は、南ベトナム軍の軍事拠点が置かれていました。
『ミス・サイゴン』の物語の軸となる都市です。
しかし、南ベトナム軍が敗北した翌日の5月1日に『ホーチミン市』という名前に改名されたので、今は存在しません。
現在のホーチミン市は、バイクだらけの熱気にあふれた都市でした! ぼったくり屋も多く、私もあれよあれよという間に、通常の4倍の値段のココナツジュースを買わされました…。
とにかく右も左もバイク・バイク・バイク…×100!
『ホーチミン市』のホー・チ・ミンって?
当時のベトナムは、北と南に分かれて戦争をしていました。そして、南ベトナム側は、アメリカの軍事的な支援を受けていました。
『ミス・サイゴン』の主人公の《クリス》は、アメリカ人。アメリカからベトナムに派遣されてきたアメリカ軍の兵士です。
『ミス・サイゴン』は、かなり南ベトナム側(アメリカ側?)に気持ちが偏って描かれているので、ホー・チ・ミンが超悪役風(w)に描かれていますが、
ベトナム人にとってホー・チ・ミンは、国民の父という位置づけで、ベトナムに旅行に行くといたるところにホー・チ・ミンの像があったり、絵画として描かれていたりして、人々から愛されているのを感じます。
優しい顔で書かれてますよね~。
『ミス・サイゴン』だと、めっちゃ怖い感じです!w
文脈が違うと、同じ人でもこうも違って描かれるのですね…!
文脈…って、ちゃんと色々と理解して読まないと恐ろしいですね( ゚Д゚)
アメリカ大使館はどこにあるのか
主人公の《クリス》は、南ベトナムに派遣されていた、アメリカ兵。 その中でも『アメリカ大使の運転手』というポジションだったようです。
当時のアメリカ大使館(現アメリカ領事館)がどこにあるかと言うと…
ホーチミン市の中心街にありました。
実際に行ってみましたが、建物を囲う塀は高く、鉄の返しがついていました。
また塀には、言葉がわからないので詳細は分かりませんが、アーティストさんの写真が飾られていました。
また、当時の南ベトナムの大統領官邸はどこかと言うと…、
ここです。
アメリカ大使館からも近く、歩いて行ける距離でした!
この、現在は『統一会堂』と言われている、『南ベトナム大統領官邸』を北ベトナム軍が占領したのが、1975年4月30日。
それをきっかけに、南ベトナム(アメリカ)が敗北する形でベトナム戦争が終わりました。
これは、建物に侵入する北ベトナム軍の戦車の写真です。
当時の南ベトナム大統領は、このヘリポートから脱出したようです。
当時、ベトナムにいたアメリカ兵達はベトナムから撤退するために、この4月29日~30日に『フリークエント・ウィンド作戦』というものを実行し、ベトナムからの撤退を図ったそうです。
『フリークエント・ウィンド作戦』とは、ヘリコプターを往復させて、それに乗ってベトナムから撤退するという作戦。
なんちゅう作戦なの( ゚Д゚)
ヘリコプターって、一回に人、そんなに乗れないよね!?
そんな方法しか無い感じだったのですね…。
負け感が半端ないです。
そして先程お見せした、アメリカ大使館などから離陸し、たくさんの人が撤退しました。
ヘリコプターに乗って逃げたのは、アメリカ人だけではなく、アメリカを支援していた一部の南ベトナム人も含まれていたようです。
この写真は、アメリカ大使館からアメリカ兵士が逃げる写真、だと思います。下の建物がそうなので。
当時の雰囲気が伝わってきますよね。
これは、アメリカ兵達が少しでも体重を軽くする為に脱ぎ捨てていった靴の写真。
(確かそういう説明が書かれていたと思います。違っていたらすみません。)
『ミス・サイゴン』は、この1975年4月29日~30日の混乱が見せ場。
歴史をひも解いても、この日は相当な混乱の日だったのだと思います。
まとめ
いかがでしたか?
地理や建物、気候などを調べるだけでも、色々な背景が見えてくるなーと思いました。調べていて楽しかったです。
皆さんがストーリーをより楽しむきっかけになったら嬉しいです。
『ミス・サイゴン』、一緒に楽しみましょう。
※もし内容が違う物などありましたら、ご指摘下さい。
非常に遅い年始のごあいさつ。
こんにちは。
去年の5月に、突如思い立って始めたこのブログですが、まだ8記事しか書いていないのにも関わらず、いつの間にかたくさんの方に読んでいただき、また毎日複数のどなたかに訪問していただけるようになり、とても嬉しい気持ちです。
どうもありがとうございます(*^_^*)
非常にスローペースの更新ではありますが、今年は仕事の合間を縫って、月に1度以上はブログを書くことを年始の目標にしました。
以前よりも少しラフな感じの文章も交えつつ細々と、『自分の考えを整理する』『興味のある方にシェアをする』ことを目標に、続けていきたいと思っています。
ご興味のある方は、どうぞ時々のぞきに来てください。
一緒にパフォーミングアートに関する色んな事を考えられたら嬉しいです。
本年も、皆様にとって良い一年になりますように。
アーティストや、アーティストの周りにいる人に読んで欲しい本
『なぜアーティストは生きづらいのか』読書レビュー
年が明け、仕事が始まるまで時間があったので、ずっと読みたかったけど読めていなかった本を読みました。
なぜアーティストは生きづらいのか? 個性的すぎる才能の活かし方
- 作者:本田 秀夫,手島 将彦
- 出版社/メーカー: リットーミュージック
- 発売日: 2016/04/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
この本でいう“アーティスト”とは、主に音楽業界で生きるアーティストのことを指しているようです。でも、その他の業界で生きるアーティストさんにも十分当てはまるんじゃないかな、と思いました。
題名だけを見ると、アーティストさん側から、
「アーティストだけど、別に生きづらさを感じてない」
「アーティスト全員が生きづらい思いをしているわけではない」
という声がありそうです。
『生きづらさ』という言葉は、“社会との関係の中での生きづらさ”のことを指していると思います。
そう考えると、どの世界にも一定数生きづらさを抱えている人はいますし、人よりも尖った個性や才能を持つアーティスト達は、社会の中で生きづらさを感じやすい人が多いように思います。
この本は『生きづらさ』、つまり、自分が生きる業界のあり方や人間関係でうまくいかないと感じているアーティストや、そんなアーティストを見て困惑している周囲の方のために書かれた本でした。
またその原因ついて、多くのページを『発達障害』という切り口でひも解いています。
『発達障害』という言葉で興味を惹かれる方や、心がざわつく方は、ぜひ読まれることをお勧めいたします。
発達障害とは
『発達障害』という言葉が一般にも浸透してきて、言葉が市民権を得ましたが、『発達障害』は正しく理解するのが非常に難しく、お医者さんでも診断が難しい障害です。
私自身も一般の方よりは理解があるつもりですが、「正しく理解しているか?」と問われると、「正しく理解するように日々努力しています。」と答えるのが限界です。
この本は、『発達障害』について全く知らない方が読むと説明が十分じゃない所もあるかもしれませんが、音楽関係者の方と発達を専門にする精神科医の先生との“対談”の形で進んでゆくので、たくさんの例や体験談が出てきて、特性を持った方のイメージが湧きやすいです。
また『発達障害』は、
“障害というほど本人を苦しめるものか、それとも個性の範囲か?”の線引きが難しく、障害と個性の間がグラデーションのように曖昧である(スペクトラムという考え方)と言われています。この本は、そのことを丁寧に書いていて、
“障害だとは思わないけど発達(得意・不得意)の凸凹があって、そのおかげで素晴らしい作品も生み出すし、苦しみもする”
というタイプのアーティストさんが、自分のことを深く知れたり救われたりするんじゃないかなと感じました。
私の勝手な印象では、クリエイティブな作業も求められるタイプ(作曲もするシンガー、振付けも自分でやるダンサーなど)の方は、ADHDっぽさがある方が比較的多くて、高いテクニックを中心に求められるタイプの方は、自閉っぽさがある方が多いような気がしています。
(※ADHDも自閉も、発達障害の種類です)
まとめ
パフォーミングアートの世界は、才能があり良い作品を作れる人が生き残る、という意味では全く“平等”ではない世界ですが、でも個性(特性)を持った人が自分に合った配慮を“公正”に受けられる世界であれば、もっとたくさんの素晴らしい作品が世の中に出るかもしれないな、と思いました。
この本はそのことを切に願っていて、こういうことを考える人がもっと増えたらいいのにと思います。私も考え続けようと思います。
紅白『AI 美空ひばり』を聞いて感動したが、心がモヤモヤする。
~パフォーマーは、おちおち死んでいられない時代がやってきた~
皆さんは、去年(2020年になる年)の紅白歌合戦をご覧になりましたか?
私は、何の気なしに見ていた紅白で、AI美空ひばりさんの『あれから』という楽曲を聞いて涙が止まりませんでした。
美空ひばりさんが亡くなられたのは、私が小学生の時。
人生が何たるかなどわからない年齢でしたが、『川の流れのように』『愛燦燦』などを聞いては、これから起こる人生の奥深さを想像し、音楽の素晴らしさに感動していました。
ひばりさんが亡くなったというニュース。「もう、ひばりさんの歌を聞けないんだ…」という悲しみと衝撃をもって受け取ったことを、今でも覚えています。
2019年大晦日、AIの技術を使って再現された美空ひばりさんの歌声を聞いて、とにかく心が震えたのです。
AIの新曲、『あれから』はどんな曲なのか
AIの力で再現した歌声で作られた『あれから』という楽曲は、もう亡くなっているはずの美空ひばりさんが私達に、
「あれから、どうしていましたか?」
「あれから、元気でいましたか?」
と、歌いかける作りになっています。
ひばりさんの声でそう問いかけられ、曲を聞いた人は、ひばりさんが亡くなってからの30年の自分の人生を走馬灯のように想起します。
途中で入る“語り”では、
「あなたのことをずっと見ていましたよ。」
「頑張りましたね。」
「私の分まで、まだまだ、頑張って。」
と、命を終えたはずのひばりさんが、聞いている人の頑張りを肯定し、これからまだまだ生きていく人の背中をそっと押してくれるような作りになっています。
作詞は秋元康さん。様々なジャンルで、人の心を動かす仕組みを作って来た方です。
作曲は、佐藤嘉風さん。200曲以上の応募の中から選ばれた曲だったそうです。 包みこむような優しいリズムの中に、ひばりさんが今まで歌ってきた楽曲を髣髴とさせる音型が巧みに織り交ぜられ、なつかしさを感じさせる素晴らしいメロディーでした。
もう会えない人を思い出しながら、これからも生き続けていくことを再確認する。『あれから』は、そんな曲でした。
感動しないわけがありません。
この曲は何のために作られたのか
この曲は、一体なんの為に作られたのでしょう。
調べてみると、この楽曲は『美空ひばりさんの歌声をAIで復活させる』というNHKのプロジェクトで作られたものだったようです。
【AI美空ひばり】紅白出場!制作の舞台裏を描いたNHKスペシャルの拡大版を放送! 「よみがえる美空ひばり」 |NHK_PR|NHKオンライン
関わった方たちの様々な意図を感じます。
『ひばりさんの歌を、ファンに届けたい。』
『AIが人を感動させることができるのか、“芸術”の世界へチャレンジしたい。』
『まだ見たことのない、新しい世界を見たい。』
『科学技術の進歩を証明したい。』
『大好きだったひばりさんに、再会したい。』
私はまだこのドキュメントを見れていません。おそらく制作をしたチームの皆さんは、それぞれの専門技術を出し切ってこのプロジェクトに取り組まれたに違いありません。
芸術は、誰かの心を動かしたり、人生に影響を与えるために存在しています。
SNSでは、この楽曲を聞いて心が動いた方のコメントをたくさん見ることができます。
そういう意味でも、このプロジェクトは成功したと言っていいんじゃないでしょうか。
私も本当に感動しました。
しかし、ずっと気持ちがもやもやしています。
間違いなく感動した。でも、なんでこんなに心がもやもやするんだろう…!
このもやもやの正体は、『アーティストの権利』という視点です。
別の記事でも書きましたが、パフォーミングアーティスト(歌手・ダンサー・俳優・楽器演奏者など)の作品は、作品と自分自身の行動を切り離すことが出来ないという特徴がある、と私は考えています。
今回の作品は、
「ここの表現はこういう風に歌いたい」
「こういう風に動きたい」
という行動を起こすひばりさんの意志(表現のアイデンティティ)を無視し、体の一部の素材を切り離して加工しています。
版権を持つ家族や音楽会社の同意を取って作られているようですが、版権を超えたご本人の表現の権利のことを思うと、心がもやもやするのです。
もしひばりさんがこの作品を見れたら、本当はどう思うのでしょう?
喋らされた台詞について、どう思うのでしょう?
作り手の皆さんは、『ひばりさんは、きっとこうだろう』『きっとこう思うだろう』ということを語られていますが、それはあくまで推測。
本当のところ本人は、どう思うのでしょう?
パフォーミングアーティストは、自分の身体を提供して作品を作ります。
素材になっても、その表現はその人の身体の一部。
表現者の意志を介さず勝手に加工し作品を作ることは、表現者自身をとても深く傷つける可能性があることを、理解しなければならないと思います。
ディープフェイク問題
今、『ディープフェイク』の問題が注目されています。
『ディープフェイク』とは、AIに基づく人物画像合成の技術で、アーティストや有名人の身体を勝手に加工し、アダルト動画にはめ込んだり、発言や行動をでっちあげたり、問題が広がってきているようです。
『ディープフェイク』は、偽物だと見分けることができないぐらいの完成度であることが特徴なようです。
“フェイク(偽)表現”とは、明らかにフェイクであることがわかる状態でないと意味がないように思います。
ディープフェイク問題も、『あれから』という楽曲も、再現性が高いからこそ、より「ご本人はどう思うのだろう?」と、心がもやもやするのだと思います。
パフォーミングアーティストは、うかうか死んでられない。
パフォーミングアーティストの皆さん。これからはうかうか死んだりできない時代がやってきましたね。
貴方がもし、自分の表現に対して何の表明も残さず死んでしまったら、貴方亡き後とんでもないことが起こるかもしれません。
パフォーマンスの主体であるあなたの意志を介さず、命(時間)を削って作り上げたあなたの表現を勝手に切り取り、加工し、貴方が望まない表現をさせられる時代がやって来たのかもしれません。
その一方、貴方の表現の素材を使って、受け取った人のこころを動かす素晴らしい作品を、誰かが生み出してくれる可能性もあります。
これからの時代は、自分が亡くなった後(亡くならなくても)、形として残った自分のパフォーマンスをどのように扱って良いのか、真剣に考え、表明する必要があるようです。
貴方は、自分の表現の権利についてどういう考えをお持ちですか?
『型』とは、演技を受け継ぐための手段?
~演技を受け継ぐことは可能なのか~
先日、『萬狂言 ファミリー狂言会・秋』を、国立能楽堂で鑑賞してきました!
生まれて初めての狂言体験。
子供も楽しめる狂言がコンセプトで、ストーリーの解説付きで、とてもわかり易かったです。
狂言って、600年前の『コント』なのですね!
癖の強いコントで、特に動きが面白く、子供たちもとても楽しそうで、良い時間を過ごせました。
『演技』を受け継ぐとは…?
解説の中で語られていたのですが、
狂言は、絶えずに続いている演劇としては世界で最古のもので、ユネスコの『世界遺産(無形文化遺産)』に登録されているのだそうです。
600年絶えずに、伝統芸能として受け継がれている演劇…。
本当に凄いです。
しかし、
『演技』を、『受け継ぐ』ことって本当に可能なのだろうか…?
と狂言の舞台を見ながら考えてしまいました。
クラッシック音楽は、『楽譜』を受け継ぐ。
クラッシックバレエは、『振付け』を受け継ぐ。
狂言や歌舞伎も『台詞』というものがありますが、シェイクスピアの戯曲とは違い、『演技』も受け継いでいる。
『演技』とは、“人間(役)の感情や行動の表現”です。
『楽譜』や『振付け』や『台詞』と違って、形が曖昧。
そんな曖昧な表現を受け継ぐって、どうやってやるのでしょう??
演技は受け継げないから『型』が必要?
自宅に帰り、ずっとそのことについて考えていたら、
そういえば歌舞伎もそうですけど、伝統芸能って『型』を大切にしているな、ということをふと思いました。
『演技』は、人間の喜怒哀楽やそれに基づいた行動を表現する行為。
どういう表現になるかは、役者によって千差万別。正確に受け継ぐことなんて出来ません。
その曖昧な表現を受け継ぐ方法として自然と生まれたのが『型』なのであれば、すごく納得できます。
『型』という目に見える形に落としていかないと、演技という表現を受け継ぐなんて難しいことは、きっとできないんですね。
600年前は、狂言はもっとナチュラルで、自由度の高い演劇であったはず。
それを600年、色々な役者の表現のこだわりや癖が受け継がれ、洗練されていくうちに、今の『型』になったのかもと思うと、すっごく面白いです。
600年前の狂言師が、今の狂言を観たら、きっとびっくりするだろうなぁ。
タイムスリップができるのなら、600年前の狂言や、生まれたばかりの頃の歌舞伎も見てみたいです!
今の洗練された形でない、原点も合わせて知りたかったです!
『型』というものは、
『型を守る』ことが目的なのではなく、
『演技を受け継ぐための手段』なのかも…、と考えると、伝統芸能の見方が変わる気がします。
『音楽』や『ダンス』以上に残すのが難しい『演劇』というジャンルの古典芸能に興味を持ちました!
ミュージカル『PIPPIN(ピピン)』【感想】2019
~何層もの仕掛けが展開する、ブラック・マジック・ミュージカル~
城田優さん主演の、ミュージカル『PIPPIN』(2019)を観てきました。観劇の感想を書きたいと思います。
※公式H Pより参照
ミュージカル『PIPPIN』を初めて観たのは2015年。ブロードウェイからの来日公演で、友人から、
「絶対見たほうがいい!…明日の夜空いてるの??じゃあ、行ってきて!!」
と言われ、仕事終わりにやや強引に観させられたミュージカルでしたが、本当に素晴らしくて、一気に私の好きなミュージカルランキングの上位作品になりました。
それが日本人キャストで上演されると聞いて、とっても楽しみにしていました!!
あらすじ
ほぼ全部が『劇中劇』の形をとるミュージカル。
ある劇団(サーカス団?)の一座がピピンという名の王子を主人公にした物語を上演する。そして、ある一人の青年がピピン役に抜擢される(城田優さん)。
一座のリーダーであるリーディングプレイヤー(狂言回し/クリスタル・ケイさん)は、私たちのいる客席に向かって、「このショーの最後に、人生で忘れられないクライマックスをお見せすることを約束する」と宣言する。劇の主役のピピンは、チャールズ王の息子で、大学を卒業したばかり。『自分の人生の目的』について自問自答する毎日。自分の人生には、<特別な何か>(=Extraordinary)があると信じ、それを求めて旅に出る。
旅を通じて、ピピンは<特別な何か>(=Extraordinary)を見つけることができるのか。そして、リーディングプレイヤーが用意したショーのクライマックスとは…?
※ここから先はネタバレありで、感想などを書いていこうと思います。
パンフレットなどは未読で、自分の勝手な解釈と感想です。
〇俳優たちのチャレンジが凄すぎる!!
2013年にブロードウェイでリバイバルされた『PIPPIN』は、新演出として、サーカスのようなアクロバットや、マジックを取り入れる斬新な演出を取り入れ、2013年のトニー賞の『リバイバル作品賞』を受賞しました。
そしてアクロバットやマジックといった専門技術は、専門のパフォーマーが担当することが一般的ですが、
この『PIPPIN』では、普段そういうことをしないメインキャストさん達もかなりの高難度の技を披露しているのが特徴です。
前回の記事で、『パフォーミングアーティストはチャレンジの連続』という内容の記事を書きましたが、まさしく『PIPPIN』は、
城田優さんが肩乗りをし、クリスタル・ケイさんが踊り、前田美波里さんが宙吊りになり・・・。
アンサンブルも含め、自分の土俵以外のチャレンジの連続であっただろうことがうかがえます。
ピピンのおばあちゃんが身体で伝える愛のこもったメッセージに、涙が止まりませんでした。
人がチャレンジをする姿ってなんでこんなに感動的なんでしょうか。
自分の土俵以外の様々なパフォーマンスをされる俳優さん達から、生きるエネルギーをもらったような気がしました。
しかし、『PIPPIN』が心に刺さるのはそれだけではありませんでした。
〇アイデンティティ探求という刺さるテーマ
主人公ピピンは、物語の中で、
「自分の人生には、きっと<特別な何か>(=Extraordinary)があるはずだ!」
と信じ、それを探すために旅を続けます。つまり、この『PIPPIN』という作品は『主人公のアイデンティティの探求』がテーマであると言えます。
アイデンティティとは、平たく言うと『自分とはどんな人間で、何なのか』ということを表す心理学的な概念のことです。
以前の記事でも取り上げた概念ですので、興味がある方はのぞいてみてください。
心理学者のE.エリクソンは、
青年(中学~概ね20代前半ぐらい)が、心理的・社会的に取り組まなければいけない課題は、『アイデンティティの確立』であると言っていて、
その時期に『自分とは何なのか』という感覚が自分の中で確立できないと、精神的に不安定になったり、社会にうまく適応ができなくなったりする可能性が出てくる、と言っています。
まさにピピンは大学を卒業し、時期的には青年期の終わりかけ。『自分とは何なのか』が見つからない焦りも生まれていたでしょう。
ピピンが必死でもがく様子を見ていると、若いころの自分を見ているみたいで、懐かしい痛みで胸が熱くなりました。
当時の自分は社会の中で、“何者でもない自分”に焦りを感じ、とにかく“何か”になりたくて、命がけでもがいていたように思います。
今思うと「何をそんなに必死になっていたんだろ」と思うし、必死だった自分って巷で言われる、『掘られたくない黒歴史』みたいなものなのかもしれません。
でもそれだけ必死で社会にコミットしないと見つけられないのがアイデンティティというもので、人間誰しもが通らなければならない課題であるといえます。
『PIPPIN』は、今の、もしくは、若かりし頃の自分達の物語です。
〇リーディングプレイヤー達って何なんだろう?
とはいっても『アイデンティティ探求物語』は、演劇でも映画でも、よく使われるテーマだと思います。
この『PIPPIN』という作品の特徴的な部分は、劇中劇を展開させていくリーディングプレイヤーの存在にあります。
リーディングプレイヤーの目的は、私たち観客に、「人生で忘れられないクライマックスをお見せする」こと。
そして忘れられないクライマックスとは、ピピンが、“自ら火の中に飛び込む”こと。
それは、自殺をイメージさせる表現です。
これは自分の勝手な解釈なのですが、リーディングプレイヤーを含めた劇中に出てくる劇団員たちは全員、ピピン役を演じた男性の頭の中にいる存在みたいなものなのかな、と感じました。
(最後のテオの所、つじつま合わんけど…)
父も、祖母も、兄も、継母も、未亡人も、そしてリーディングプレイヤーも、社会との関係性の中で生まれた、彼の頭の中にいる“彼自身”の象徴。
アンサンブルが、ピピンのお芝居を見守っているのも、そうイメージすると自然に思えてきます。
そしてリーディングプレイヤーは、誰の心の中にもひっそりといる、“自分自身を破壊する衝動”。
リーディングプレイヤーは、焦りともがきの中でアイデンティティを探求するピピンを見つめ続け、破壊へと導きます。
最後は、おばあちゃんや、父や、兄など、ピピンの別の部分までも取り込んで、自殺をけしかけます。
世界でたびたび起こる、社会への怒りや不満が発端となる無差別の殺人事件や、自殺は、
社会の中で<特別な何か>になりたいともがく人間の、こころの奥に潜むリーディングプレイヤーが焚きつけた破壊の結果なのだと考えると、
この作品は奥深いなぁ、というか、怖いなぁ…と思います。
リーディングプレイヤーが私達客席に向かって、「期待するクライマックスを見せれなくてごめんなさい」(確かそんなことを言っていたような…)、と話しかけてきた瞬間、なんだかゾッとしたのは、私の中に眠る破壊衝動が揺り動かされる気がしたからでしょうか…。
ただのアイデンティティ探求物語に納めない『PIPPIN』。
人生を模索する人間の、影の部分にも光を当てる『PIPPIN』。
さすがフォッシーが関わった作品は違います。観劇後に、感動とともになんとも言えないもやもやを残していきます。
〇何層にも仕掛けが潜むブラックマジックミュージカル
俳優さんたちの、チャレンジに満ちた生き生きとした生命力にあふれるパフォーマンスに感動し、
フォッシースタイルの、開放的すぎない内に秘めるような魅惑的なダンスに酔いしれている裏で、
私たちの心の奥にもやもやを残していく…。
「楽しかったーー!!」だけでは納められず、言葉にならないこの気持ちを誰かと共有したくなるような…。
ああ、なんて何層にも何層にも仕掛けが潜んでいるミュージカルなんでしょうか!!
『PIPPIN』は、私のこころの中にいつまでも残り続ける作品になりそうです。